※2020年5月30日 書き直し
うつ病になるまで
大学を卒業して、大学院で遺伝子とタンパク質について研究していました。大学院は、別の大学に入学しました。そこで、研究文化の違いや桁違いの研究費、毎日研究漬けの生活にどうしても馴染めなくて途中退学をしました。
natureに論文が掲載されるような、研究室だったので周りレベルが高かったこと、自分よりキャリアの長い当時30歳位の同僚がどうしても自分と合わなかった事が原因です。
大学院をやめて、当時はいわゆる就職氷河期でしたが、運良く正社員で雇用してくれる会社に入社し、今に至っています。給料は安いですが、離職率の低い会社です。
私の勤務先
私の会社は、様々な部門があり、社員の異動は、かなり流動的に行われます。一つの部門で大体5年位同じ業務に着いた後、関連性の深い(シナジーの深い)部門に異動となります。特に若手の時は、このローテーションのサイクルが早く、自分の適性のある部署をみつけ、そこでスペシャリストになる事が一つの出世の道となっています。
期待値の高い若手には、職位に関係なく重要なプロジェクトがどんどん回ってくるのも、特徴です。そこで将来の幹部になれるかなれないかの、ふるいにかけられます。
どこの組織も同じだろうと思いますが、本当に優秀な人材は、多くはいません。なので、社内で横断的なプロジェクトが立ち上がった時に、メンバーが良く見たメンツという事がよくあります。
私自身は、勤続16年で、部署を3つ渡り歩いていますが、部署によって関係法令や求められるスキルが異なるので、その都度、0ベースから勉強をして自分のできる範囲で業務をこなすという毎日を送っています。
責任ある仕事を任され残業が続く
私がメンタル不調をきたしたのは、2つ目の部署で30歳位の時でした。
自分で言うと気恥ずかしいのですか、会社の中では、上司の評価が高かった私は、当時、社内システムの開発に係る総合調整役を任されていました。関係部署のニーズ把握と機能の要件定義等(システムにどういった機能を持たせるか詳細を決定していく)で毎日残業が続き、帰宅が午前になることもしばしばという状態でした。
毎日、プレッシャーを感じながら仕事をしていたわけですが、システムの開発には当然ながら期限があります。
期限が近いのに、なかなか開発が進まない、プロトタイプをリリースしても現場からは不満の声が上がるなど、独力だけではどうにもならず、上司に相談しても、初めてのプロジェクトなので全くアドバイスがもらえず、最後にはSEが泣いて、匙を投げる等(泣きたいのはこっちだよ)本当に八方塞がりの状態になってしまいました。
うつ病の初期症状は咳だった(花粉症と勘違いし、その予兆を見落とす)
そのような環境の中、咳が止まらない、えづいてしまうという身体症状でてきました。
タイミング的にちょうど春の花粉の時期と重なっていたため、花粉のせいで喉が炎症を起こし、結果咳が止まらないと考えた私は、まず耳鼻咽喉科を訪れた出された薬を、服用しますが症状は全く改善せず、咳はひどくなるばかり。
当時は、うつという言葉は知っていましたが、それが、体に影響する事がある事を知らず、また自分がうつになるとも思ってもおらず、早く花粉の時期が終わらないかなと考えていました。
必死に咳とえづきを我慢して仕事をしていた事を覚えています。
日常生活に問題が出てくる
身体が変調をきたしながらも、システム開発のデッドラインはどんどん近づいてきます。次第に食欲がなくなり、注意力が散漫になり、日常生活に支障が出始めました。
具体的には、バス停を乗り過ごす、タイムカードを押さずに社員口を通り過ぎてしまう、会社のパソコンにログインするためのパスワードが思い出せない等、普通であれば、当たり前に出来ていたことができなくなっていきました。
判断力が低下する
なんだか変だと自分でも気付いていましたが、心に余裕がなくなってきているので、うつだとかそういう発想に至りませんでした。
流石に、こういった状況になれば家族は気付くはずですが、ちょうどその頃、2人目の子供が生まれ、妻が里帰りしていたこともあり、私の変調に気付く人間は誰もいませんでした。(相談相手の妻が長期に渡り、居なかったことは精神的に追い詰められる、要因の1つだったと思います。)
限界を超え、うつ病に(文字が全く読めなくなる)
結局、仕事の状況は全く好転せず。その頃には、頭の中が仕事でいっぱいになり、なかなか眠れない日が続くようになっていきました。無理をして仕事に行きましたが、能率が上がるはずもなく、さらに落ち込むという悪循環に入ってしまいました。
当時の心境は、交通事故にでも遭って仕事をお休みできないかなぁと、本気で毎日思っていました。
また、周りの社員が8時ごろに帰っているのになぜ自分だけに負担が集中するのか?という不満もありました。当時は若手だったこともあり給料も低かったので、自分より高給取りの同僚や先輩がなぜ自分以下の仕事しかしないのかといった攻撃的な思いも頭に浮かぶようになりました。
その後も、周囲にうつ状態を悟られないよう仕事を続けていましたが、全く文字が頭に入らない、文章を見ても何もイメージできない、そういう状況になった時、あぁもう仕事は続けられないなぁ、もう会社を休もう、そういう決心ができるようになりました。
初めての心療内科通院
うつ病を自覚してから心療内科に行くまでに、私は、妻に自分の状態を説明し、妻の紹介で近所の内科を受診しました。
その内科では心身症やメンタル疾患について気軽に相談に乗ってくれるご高齢のドクターおり、抗不安薬であるデパス(0.5ミリグラム×2)を処方してもらい、心療内科を案内してもらうことになりました。
そのお医者さんに言われたことで記憶に残っているのは、「まだ若いんだから、メンタル疾患で休職すると、将来のキャリアに影響があるよ。」という言葉でした、当時の私の心境は、「出世なんてしなくていいから何とか心平穏に仕事を休まずに続けたい」と思っていました。
悩んだ末にうつ病を周囲に公表することなく仕事を続けることに・・・その理由
- これまで抱えていたプロジェクトのゴールが見えてきたことで心理的な負担が少し軽くなったこと
- 処方された薬が非常に効果がありゴールデンウィークの休養で、気力が少し回復したこと
- 当時病気休暇を取らなかった理由の一つは、うちの会社では、病気休暇3回で退職という不文律があったこと
デパスは、症状は緩和してくれるが、回復には時間が必要
うつ発生初期の生活(仕事以外何もできない)
薬を飲み始めて、3カ月くらいの間は、仕事も家庭も必要最低限の事をするので、精一杯でした。すぐにエネルギーが尽きてしまい、焦る気持ちとは裏腹に、頭はまったく回転せず、体もフラフラという状態が続きました。
帰宅してからは、仕事の事をできるだけ考えないようにして、毎日22時には就寝していました(この頃には、殺人的な業務は終了したので、20時頃には帰れる状態になっていました。)。
うつ病を経験した人なら誰しもが納得すると思いますが、エネルギーが切れると自分が好きな事をやる気力までもが失われます。私は、読書くらいしか趣味がありませんでしたが、おそらくデパスの影響でしょう、頭が朦朧として0.5ミリグラムのデパスを服用している期間は全く読書をするという気にはならなかったし、読んでも全く頭に入りませんでした。
休日は、外出する気力もなく、別に見なくもないDVDを見たり、やりたくもないオンラインゲームをしたり、子供の顔をぼーっと見ながら過ごす といった生活をしていました。
当時の私は、家でじっとしてれば、自然にエネルギーが復活すると思っていましたが、今思えば大きな間違いでした、土日は確かに出勤という高速からは逃れることができますが、家にいても気が休まらないのです、考えたくない仕事の事が頭をチラチラよぎったり、大したことのない問題を、なぜか大問題のように感じてしまい、気になって脂汗をかいていたり。
結果、うつ病の影響で、ライフスタイルも大きく変化し、休日は自分から積極的に家族と出かけたりするということが、できなくなっていました。
回復は少しづつ・・・家事が非常に負担であることに気づく
うつが、急に良くなることはありませんが、日にち薬で、時間が経てば少しづつですが、確実に良くなります。
人間の体には、元に戻ろうとする力(恒常性)が備わっている事を実感しました。私の場合は、大体6カ月位で、以前の6~7割くらいの状態まで戻ることができました。回復自体は非常にうれしいことなのですが、職場の上司も妻も、私がまだうつ病の影に怯えているとは思わず、10割の状態に戻った、つまり完治したと勘違いをされました。
この頃には、仕事の量も家事の量も以前と同じ分をこなすことを期待されており、不安の波に飲み込まれながら、子供を保育所に送りに行かないといけなかったり、仕事中に急に体が痺れて動けなくなったり、訳もなく心が不安でいっぱいで、何も考えられなくなったり、しながらなんとか納期迄に成果物を納めたり、周囲の期待と自分のできることのギャップに苦しめられた記憶があります。
当時から、うつの治療の本なども読んでいましたが、なんとなくしっくりこない本ばっかりだったことから、何もしないでうつ病を治すという消去的な対応になってしまいました。
今思えば、もっといろんな情報に触れて、認知療法や運動療法、瞑想などを生活に取り込んでおけばより、短期間で改善できたと思います。
うつ病を周囲に公表しないことのデメリット
結論をもう一度